【センチメンタルな話6】あるおっぱい、ないおっぱい
仙台駅の改札から蓋を切ったかのようにサラリーマンが溢れてくる。
時刻は8時半をすこし回ったあたり。
通勤ラッシュだ。
その間をすり抜けて改札にすべりこむ。
自分に向かってくるサラリーマンの群れを逆行していく時、自分が社会という共同体から離れたところで孤立してぽつりと立ちすくんでいるような感覚に陥る。
抗えない流れに身を任せるが如く電車に揺られて会社に向かっていた時は嫌で嫌で仕方なかったあの通勤の時間。
そこから離れた今、その流れの中にいないことが不安になる時がある。
当たり前のように始まっていた朝礼、当たり前のように掲げられていた目標、当たり前のように決められていた会社のスケジュール。
そして20時前になるとすこし気だるそうに出勤してくるガールズバーの女の子たちの表情。
流れの中にいたら当然のように迎えていた日々が目の前から消えている。
目を瞑っていても続いていた明日がもう今はない。
仙台の駅はあまりにも都会で、社会人生活を思い出さずにはいられなかった。
「仙台(せんだい)というより3仙台(さんぜんだい)に感じるくらい都会」
というLINEを数人に送ったけどスルーされた。
都会で働く友人たちはこんな面白いジョークに反応する余裕すらないのかもれない。
かわいそうに。
会津若松を出て、仙台の街を拠点に岩手県の平泉、宮城県の松島を2日間かけてまわった。
急にダイジェストみたいになっているのはそこまで自分の心に響かなかったからだ。
どちらも美しい景色、立派で歴史のあるお寺があった。
それでも自分の中で会津若松ほど揺れるような感情が生まれることはなかった。
ただただ、はやく大阪に帰ってゆなちゃんのおっぱいに顔をうずめたいと思った。
うずめるほども無いけれど。
会津若松から仙台へ向かうバスの中、近くに座っていたカップルの声が聞こえた。
「お城しかなかったね、会津若松」
平泉から仙台に帰るバスの中では老夫婦が楽しそうに話していた。
「中尊寺は本当に何度来てもいいね」
僕にとってあった場所がカップルにはなくて、僕にとってなかった場所が老夫婦にはある。
白虎隊のヒストリーが心を抉って、何かが言葉としてこぼれそうになるこの感情が、彼らにはない。
2時間に及ぶ帰りのバスの時間を全てそれで使い尽くせるあの感情が、僕にはない。
昔、女の子と観に行った映画を思い出した。
僕にとっては寝るくらい退屈で、彼女にとっては涙が出るくらい感動したという、今後どうあがいてもうまくいかない2人の関係性を暗示するような映画。
映画内で映った景色、そのシーンで使われたセリフが彼女の過去の思い出と重なって涙が出たと話していた。
僕の嫌いなラム肉の餃子を食べながら。
世界一周を考えてから、SNSを積極的に見るようになった。
それを見ていて思うのは、「みんな何かを言いたがっている」ということだ。
自分の中に眠る意見を表現する機会を伺っている。
新しい価値観や景色、体験に触れたときは感情と結びつけるエッセンスが見つけやすい。
旅はまさにそれだ。
東北を少しだけ旅行してみて、内なる自分の声に耳を傾ける。
何がしたいのか、何を言いたいのか。
あるものとないもの。
大きな声で返事が聞こえる。
そうだ。世間の男たちはないと言うけど、僕にとってはあるもの。
はやく大阪に帰りたい。
そしてゆなちゃんのおっぱいに顔をうずめたい。